アラサ―日記

思い出と記憶と記録

学校とは人の形を奪う場所だと思う

今でも納得できないこと


中学の時、私の学力は中の下~下の上

勉強する気になれなかったし
勉強する意味も分からなかった

毎日の宿題はどうせしないし提出もしてなかったし
義務教育をいいことに授業は9割寝ていた

心の底から勉強する気が無かった

体育や音楽や美術は感覚を身に着けるという意味では価値があると思ったし
それが今生かされている仕事についているし
無知すぎると思われない程度には教養はあるつもりなので
「それってなんですか?」と質問することはいいコミュニケーションツールだと思っている
本当に心の底から勉強しなかったことを後悔はしていない

数学や社会は当時からPCや携帯電話は存在したし
授業で「こういうものがある」とだけ認識しておけば
将来困った時に検索をすればいいと思っていたし
今でもそう思っている

そんな私を横目に、いつも必死で勉強をしている友人がいた
国語数学理科英語社会音楽体育美術技術・・・

「どうしていつもそんなに頑張っているの?」と聞くと
「悪い点数を取るとお母さんが悲しむから」と言った

「良い高校に入ってお母さんを喜ばせたい」
「いい大学に入りたい」「お母さんがお母さんが」

彼女のその理屈は今でも理解できないし、正しいとも思えない

けれどみんな意味も目的もなく勉強する
やりたいことや好きなことを無視して勉強をする

絶対に違うと思う

でもどれだけ話しても私と同じ意見の友達は居なくて
みんな必死に「いい学校」に行こうと頑張ってた


私はモノ作りが好きだし絵が好きだ
作り手の感情を考察したり理解するのが好きだった
だからデザイン科に入った
いまはデザインの仕事をしている


そういう感覚よりも
無暗に好きでもない勉強して進学して結果興味のない仕事をしている人が多く
結果「ブラック企業だ」とか「過労だ残業だ」とか
楽しくないことをしている人が多すぎると大人になった今感じる


学校という場所は決まった形に人を押し込める箱のようなものだから
押し込められることに反発したひと
押し込めてもはみ出してしまうものは
変・おかしいと異物を見る目でみるが
将来その「自分が正しい」と思っていた人達の大部分が苦労するようにできていてとても奇妙に感じる